「トイ・ストーリー」への複雑な思い
「トイ・ストーリー」といえば、言わずと知れたディズニーの大ヒット映画シリーズ。
私もシリーズはすべて観ていて、「トイ・ストーリー3」では感動した覚えがあります。
でも、リピートすることはなく、「私の」映画とはなっていませんでした。
なぜか。
それは、映画を見ると、これまでに出会ったおもちゃたちのことを思い出すからです。
小さなころに遊んだリカちゃん。
一緒にベッドで眠った白いイヌのぬいぐるみ。
そして、我が子が遊んできた数々のおもちゃたち。
でも、彼らは今ここにはいません。
どこかの時点で処分してきたからです。
大好きだった、大切だったおもちゃたちのはずなのに、私は彼らを捨ててしまった。
「トイ・ストーリー」を観ると、ウッディたちの冒険にワクワクし、アンディとの絆にほっこりしすればするほど、ここにいない自分のおもちゃたちを振り返って罪悪感を感じずにはいられない。
だから私は「トイ・ストーリー」を100%楽しめずにきたのです。
「トイ・ストーリー3」で、大学生となったアンディから新しいこどもボニーへと手渡されたウッディたち。
これが、“成長したこども” とおもちゃの理想的なかたちだと描かれていました。
それなのに、まだ続編を作るという。
「おもちゃの物語」にこれ以外のどんなハッピーエンドがありうるというのでしょう?
ストーリー
「トイ・ストーリー4」の冒頭、ウッディは早くも「持ち主に飽きられる」という危機に陥っていました。
ボニーのお気に入りは、ボニーが自分で先割れスプーンから作った、ぶかっこうな、でも愛嬌のあるフォーキー。
しかし、フォーキーは持ち主のNo1.であるにもかかわらず、「わたしはゴミ」とゴミ箱へ脱走しようとします。
ボニーの家族がキャンプへと出かけた車から逃げ出したフォーキーと、それを連れ戻そうとするウッディを軸に、いつものようなハラハラドキドキの冒険が始まります。
今回のお話は、バズやジェシー、ポテトヘッド夫妻といったいつもの仲間たちの出番は少なく、旅先の骨董屋で出会う人形のギャビー・ギャビーや、移動遊園地の景品ダッキー&バニーの比重が大きくなっています。
そして、そこでウッディと再会するのが、ボー・ピープ。
彼女は、誰かのおもちゃでいることをやめ、自立したおもちゃとなっていました。
フォーキーと一緒にボニーのもとに戻るために奮闘するアンディでしたが、最後に選んだのは、ボーと一緒に移動遊園地に残ることでした。
「心の声に従うんだ」とウッディに言い続けてきたバズたちも、それを温かく受け入れます。
アンディは、これまで大切にしてきた「こどものために生きること」をやめ、自分とボーのために生きていくことにしたのです。
日本とアメリカの評価の違い
この結末には賛否両論が巻き起こっています。
アメリカでは評価が高い一方、日本では否定的な感想が多いとか。
「トイ・ストーリー」が好きな人にとっては、これまでの世界観が裏切られた、受け入れがたい結末であることもわかります。
でも、私はなんだか救われたような気がしました。
おもちゃはただこどもに遊んでもらうのを待っているだけの存在ではない。
こどもとおもちゃとの蜜月期間が終わったあとは、おもちゃにはおもちゃの時間がある。
こどもが成長しておもちゃを顧みなくなることは、冷たいことではなく、ただお互いにとっての “そういう時間” が終わったということなのだ。
こんまりさんの「ときめき片づけ」
日本のみならず、海外でも大ブームを巻き起こしている近藤麻理恵さんの『人生がときめく片づけの魔法』には、「手にとってときめきを感じなくなったものは、お役目が終わったということだから感謝して手放しましょう」とあります。
ある時点では確かにときめきが感じられたものでも、時がたつと必要がなくなるのは必然のこと。
人と人、人とモノ、そして人とおもちゃであっても、出会いがあれば別れがある。
でも、こどものときにめいっぱい遊び、大きくなって感謝してお別れしたおもちゃたちは、その後もおもちゃの世界でのびのびと遊んでいる。
そう思えれば、ちょっと救われるし、またいつか会えるような気もするのです。
「トイ・ストーリー4」は自立の物語
また、この映画でウッディの先を行き、新しい世界を見せるのは、女の子であるボー・ピープでした。
最近のディズニーの強いプリンセスがここにも。
迷いながらも自立へと踏み出していくウッディの姿をもう一度見たいな、そう思える「トイ・ストーリー4」は、私の映画となりました。