どうしてこの子たちはこんなにケンカっぱやいんだろう。
ずっとハラハラしながら見ていました。
ケンカなんかする必要ないのに、決闘なんてやって何になるの?
君たちの言う闘う理由は理由になってない。人生には少なくともケンカよりは明日につながることがあるし、「ここ」じゃない世界だってある。
どうか言葉だけにしておいて。こんな危なっかしい子たちがナイフや銃なんか持っちゃだめ……
「第三次世界大戦がしたいの?」
映画の中のセリフです。
映画の世界がロシアとウクライナの戦闘が続く状況と重なりすぎて、「ウエスト・サイド・ストーリー」が名作たるゆえんがいやがおうにも迫ってきました。
戦いは合理的な理由があるから戦うんじゃなくて、「自分は満たされていない」「自分はあいつらのせいで損をしている」と思うから鬱憤をはらすために起こる。
それでもナイフを持つと、武器を持つと、核を持つと、「どうだ、オレは強いだろう」と見せびらかしたくなる。周囲はそれを見て「キミは強いね」と賛嘆するのではなく、「困ったヤツだ」と見下すだけなのに……
説得力を失わない構図の強さ
「ウエスト・サイド・ストーリー」は、「ロミオとジュリエット」をもとにした、有名すぎるミュージカルです。
1961年に映画化。ミュージカルとしては人種差別や貧困といったテーマを取り入れた革新的な作品でしたが、作品の構図は単純です。
対立したグループの男女の間に生まれた禁断の恋。
前作から半世紀がたち、インターネットで世界中がつながる時代、GAFAMを擁するアメリカは世界一の富を持っています。
この作品のストーリーは陳腐になってもいいはずなのに、残念ながらアメリカから、そして世界から分断と対立はなくなっていません。
「ウエスト・サイド・ストーリー」の単純な構図は、揺るぎのない説得力を持ち続けているのです。単純であるからなおさら。
同時期に重層的で繊細な「ドライブ・マイ・カー」を観たせいか、この単純さの持つパワーを逆に感じました
この2作品がアカデミー賞にノミネートされているのもおもしろいね
スピルバーグが今「ウエスト・サイド・ストーリー」をリメイクした意味
スピルバーグは、映画の特典映像の中でこのように語っています。
考えの異なる人々の間の分断は昔からあります。
ミュージカルで描かれた1957年のシャークスとジェッツの分断よりも、私たちが直面している分断の方が深刻です。
5年をかけた脚本づくりの過程で気付いたのです。人々の分断は広がり、もはや人種間の隔たりは一部の人の問題ではなくなった。観客すべてが直面する問題なのです。
スピルバーグの言うとおりだ……
禁断の恋は結ばれるのか?
この歳になると、マリアとトニーの恋に対しては、ちょっと引いた目で見てしまいます。
恋なんてねー、最初は盛り上がるけど、長くなればなるほどいろいろ出てくるものなのよ。
トニーが早々に死んじゃったから美化されるけど、生きていたら嫌なところも出てきたよねきっと。
なんてね。
でも、この映画にはいるんですよ、バレンティーナが。
61年版では男性のドクがドラッグストアの店主でしたが、スピルバーグ版では老女バレンティーナがその役を担っています。
バレンティーナはプエルトリコ系の女性ですが、白人であるドクと結婚し、ドラッグストアを経営し、夫の死後は一人で店を守っているという設定です。
人種差別も、異なる人種間の結婚に対する風当たりももっと厳しかった時代に、街の片隅で愛をまっとうしたカップルがいる。
これはスピルバーグ版の強烈なメッセージだと思います。
また、そのバレンティーナを演じているのが、61年版でアニタを演じたリタ・モレノだというのが胸熱すぎです。
リタ・モレノが歌う「サムウェア」、胸に染みました
上記のインタビューでスピルバーグはこう言っています。
あらゆる世代に訴えかける深い物語です。愛はどんな隔たりも埋めてくれます。時代を超えて何度でもこの物語を思い出すことでしょう。
この「愛」には、あらゆる障害を飛び越えて恋に落ちる瞬間的な「愛」だけでなく、静かに一生を貫く「愛」も含まれるのではないでしょうか。
やはり名作「ウエスト・サイド・ストーリー」
61年版、昔観たことはあって、「すごくよかった!」と思ったことは覚えているのですが、映画の詳細は覚えていません。
なので、61年版とスピルバーグ版の違いについて語ることはできないのですが、スピルバーグ版が、「ウエスト・サイド・ストーリー」という作品に対して、リスペクトを持って、その魅力を存分に引き出してリメイクした作品であることは確かだと思います。
今回の映画を観て、比較する意味でも、「ウエスト・サイド・ストーリー」の世界にまたひたるという意味でも、61年版も観たいし、舞台も観たくなりました。
やはり「ウエスト・サイド・ストーリー」は名作です。ぜひたくさんの方に観ていただきたいと思います。