戦争映画を見るたびに、アメリカ人の描く戦争映画には敵わない、と思う。
男の友情を描いた映画には女の友情を描いた映画は(とても悔しいのだけれど)かなわない、と思う。
「プライベート・ライアン」「硫黄島からの手紙」「アメリカン・スナイパー」etc.
これらの戦争映画は、すなわち男の友情を描いた映画でもある。
秀作揃いなのは当然だ。
「ハクソー・リッジ」は、第二次世界大戦中にアメリカに実在した兵士、デズモンド・ドズを主人公にした映画である。彼は敬虔なクリスチャンで、「汝、殺すなかれ」というキリスト教の教えを守るために、銃を取らずに衛生兵として従軍し、75人の命を救った。
映画の宣伝においても映画の中でもデズモンドの行動は強い信仰心ゆえのものだと語られている。
でも、私には腑に落ちなかった。
「殺すこと」を本当に否定するのならば、戦闘行為そのものを否定するのが筋なのではないか。
自分は殺さないけど仲間が殺すのはOKなのか。
戦争そのものを懐疑する考えはないのか。
銃を手にすることはあれだけ拒むのに、安息日の掟はあっさり破るのはなぜか。
しかし、そこへ宗教ではないある視点を導入すると、すっきり説明できることに気がついた。
それは「父への葛藤」と「男の友情」。
それを1つの視点にまとめると、要するに「男」ということ。
デズモンドの父は第一次世界大戦に従軍した。仲間が戦闘の中でむごい死に方をするなか、自分は生き残って帰ってきた。
しかし、心には深く傷を負っており、アルコールに溺れてしばしば妻や子どもに暴力を振るうようになる。
彼は、そんな父に複雑な思いを抱きながら育つ。
デズモンドがまだ幼かったある日のこと、彼は兄とケンカしているときに勢いでレンガで兄の頭を殴ってしまう。意識を失った兄の姿を見て、彼は兄を殺してしまうのではないかという恐怖にさいなまれる。
それがきっかけとなってデズモンドは「汝、殺すなかれ」というキリスト教の教えを深く心に刻むことになる。
第二次世界大戦が始まり、彼の兄をはじめとして「リメンバー パールハーバー」に燃える青年たちは次々に軍隊に志願していく。
軍需工場で働いているため従軍を免除されていた彼も、衛生兵として戦地に赴きたいと願うようになる。
どうしてデズモンドは軍隊に入ることを望んだのか。
それは、「女子どもを守るため」というよりは、「女子どもを守るために戦う」と胸を張って語る仲間の輪の中に入りたかったからではないか。
そして、戦争に傷つき精神を病みながらも戦争と仲間のことを誇らしげに語る、父に遅れを取りたくはなかったからではないか。
しかし、暴力を振るう父と同じにはなりたくなかった。
男の世界の中で仲間でいたいから、彼はどんなに嫌がらせを受けても、上官に諭されても隊から外されることを拒み、しかし、父と同じにはなりたくないから銃を手にすることもかたくなに拒み続けた。
安息日を破っても父との関係に影響はないが、銃を手に取ると父に負けたことになってしまう。
母は言う「戦争に行く前の父さんはあんな人じゃなかった」。戦争に行く前はおそらく勇敢で優しく魅力的であっただろう父。
しかし、今は「女子ども」に暴力を振るう存在に成り下がってしまっている。
父がアルコールに溺れているのは、戦争で仲間を助けられなかった無力感、一人だけ生き残った罪悪感のゆえだろう。目の前にいる妻や子どもよりも、死んでしまった仲間のほうに彼の心は寄り添っている。
戦争そして軍隊の仲間は、父の心を壊したものであり、同時に父の支えになっているものでもある。
裁判にかけられるデズモンドのために、父は軍服を着てかつての上官に掛け合い、軍法会議に乗り込む。
幼い息子を守るためには更生できなかった父が、息子が一人前の軍人になるためには別人のように毅然として立ち上がるのだ。
デズモンドは確かめたかったのではないか、そこまで父の心をとらえて離さない仲間とはどういうものなのか。戦争とその極限状態での友情とはどういうものなのか。
彼は戦場でひたすら仲間を助け続ける。その中には敵である日本人も含まれた。仲間が撤退してしまった崖の上で、命を懸けて、「神様、あと一人助けさせてください」と祈りながら駆け回る。彼の視点は戦場においてもあくまでも仲間に向いている。
戦争に行き、そこで暴力を使わずに手柄を立て、仲間の賞賛を受け、無事に帰還して、精神に異常をきたすことなく妻と平和な家庭を作る。
彼は戦争を通過儀礼とすることで、父を超えてみせたのだ。
主人公のアンドリュー・ガーフィールドは、奇しくも日本とキリスト教の関係を描いた「沈黙」でも主演している。
「沈黙」の中で神はずっと沈黙していたけれど、「ハクソー・リッジ」の中でもやはり神は沈黙している。
余談だけれど、これだけ激しい戦闘をした日本とアメリカが今は最大の同盟国となっている。「水に流す」というのはすごい能力だと思う。