映画を観終わって思ったこと。「この映画の中では“迫害があったからキリスト教は日本に根づかなかった”となっているけれど、迫害がなくなった現代でも日本ではキリスト教は広まっていないよな」
優しい自然の中に八百万の神をもつ日本人は、神社にも寺院にも教会にも手を合わせることに矛盾を感じない。
しかし、そんな日本的なあいまいさと厳格な神を持つキリスト教との相克に苦しんだのが遠藤周作だった。その苦しみが小説『沈黙』を生み出し、平成の世に外国人監督によって作られた映画がまた観客に問いをつきつける。
遠藤周作の原作を、マーティン・スコセッシが監督し、英語で撮られた映画『沈黙』。
原作をほぼ忠実に映像化した作品は、長く、暗く、薄汚く、眼を覆いたくなるような残酷な拷問のシーンが続く。
踏み絵を前に役人は農民に迫る「形だけでいいのだ。心の中では何を信じていてもかまわないから、とりあえず形だけこの踏み絵を踏め。そうすればみんなが楽になれる」
現代を生きる私も思う、とりあえず踏めばいいじゃん。自分を中心にして、自分が生きるうえでプラスになるようなものを選んでいけばいいじゃん。
しかし、農民たちは踏まず、激しい拷問を受けることになる。その拷問を耐え抜く原動力は、信仰心なのだろうか? ひょっとしたらお上に対する反抗心なのではないか? どっちに“転ん”でもみじめな生活しか待っていないこの世界に対する最後のプライドではないのだろうか?
「パライソ」と「極楽浄土」に何の違いがあるのだろうか?
もしも信仰を持っていることがその人に苦しみをもたらすのなら、その信仰に意味があるのだろうか?
神話の中、教典の中では神は言葉を発している。でも、現実の生活の中で神が言葉を発したり、奇跡を起こしたりすることがあるだろうか?
神はいつも沈黙していたのだ。
人間が、いつもそこに自分の都合がいいように神の声を聞いていたのだ。
神の沈黙の前に何を聞くのか−−−−それがその人にとっての信仰なのかもしれない。
万物の創造者たる一神教の神を信じることは難しい。けれど、完全な虚無の中に生きることは耐えられない。
そんな自分は沈黙の中に何を聞いているのだろう、そんなことを考えさせられる、とても力を持った映画だった。
スコセッシ監督もインタビューで語っている「映画は完成しましたが、これで終わりだとは思っていません。今も自分の心の中に掲げ、作品と共に生きているという感覚でいます」
映画のラストシーンは原作にはなく、ここまで原作にとても忠実に映画を作ってきたスコセッシ監督があえてつけ加えたものだ。
埋葬されるロドリゴの手に握られた、モキチの十字架。
それは、敬虔なカトリックだというスコセッシ監督自身の“沈黙”に対する答えなのではないか。
そして、それを握らせたのはロドリゴの妻以外にはありえないように描写されている。この妻については、映画の中ではセリフもこれといった感情表現もない。しかし、このワンカットで、彼女の人生や、ロドリゴとの絆について思いが致されてしまった。
彼女の“沈黙”の中には何があったのだろう?