【書評】『「ゼロリスク社会」の罠』佐藤健太郎 コロナショックの今だから読みたい

コロナショックで、今、日本中、世界中が大変な状態になっています。

ただ、一口に「大変」といっても、新型コロナウイルスが起こす病気そのものの大変さと、人々の「恐怖心」が引き起こす大変さにはズレがあり、むしろ人々の恐怖心のほうが社会の混乱を大きくしているようにも感じています。

 

今回ご紹介する佐藤健太郎著『「ゼロリスク社会」の罠』は、病気と人間、人間のリスクを恐れる心と社会の関係を考える上でとても示唆に富んだ本でした。

コロナショックの今だからこそ必要となる考え方が満載です。

 

本の概要と作者

[佐藤 健太郎]の「ゼロリスク社会」の罠~「怖い」が判断を狂わせる~ (光文社新書)

画像 amazonより

「今や何をするにもつきまとうリスクに、日本人はすくみ上がり、縮み上がっているように見えます。

もちろん、避けられるリスクは避けるに越したことはありません。

ただし、リスク回避の方向を誤り、無駄なお金を払って新たなリスクを招いているようなケースもなしとしません。

それがもたらす身体的・経済的損失は、計り知れないほど巨大になっているはずです。」

(「はじめに」より抜粋)

 

現代の我々を襲うリスクは、歴史や経験からは教訓を引き出せないものばかりである。

何が、どれくらいの量あると、どれだけ危険なのか。

イメージや先入観、本能の発する恐怖に惑わされずに、一人一人が定量的に考え、リスクを判定していくためにはどうしたらよいのか。

本書では、この時代を乗り切ってゆくために必要な「リスクを見極める技術」について、著者の専門とする「化学物質」「医療」「健康」の分野を中心に解説。

さらに放射能のリスクについても、基礎から再考する。

 

amazonより

 

筆者の佐藤健太郎氏は、医薬品メーカーの研究職を経て、東大での教員職も経験したサイエンスライター。

 

一時期はやった『買ってはいけない』のようなトンデモ本の作者に対して、研究者ならではの冷静な視点からその矛盾点を指摘します。

 

「合成添加物は人間の体で処理できずに蓄積される」という指摘には、

筆者は製薬企業で十数年にわたって様々な化合物を合成し、その生理作用を調べる仕事に従事してきました。

医薬になる化合物は、当然、体内で一定時間とどまってくれなければならないのですが、生体の代謝システムというものは実によくできているもので、人が苦労して合成した化合物を無慈悲に分解し、あっという間に排出してくれます。

 

ご存知の通り、市販されている多くの医薬は、毎日二度三度と飲まなければなりません。体内残留時間を少しでも長くするよう、様々な工夫を凝らした医薬ですら数時間で排出されてしまうからこそ、こうして何度も服用する必要が出てくるのです。

添加物の「複合汚染」を煽る、安息香酸とビタミンCを混ぜるとベンゼンが発生するという指摘には、

有機化学に心得のある人なら、この反応が極めて起こりにくいものであることは一見してわかります。炭素と炭素の結合は極めて丈夫であり、特殊な金属などを使うのでなければ、そう簡単に安息香酸の分解など起こるものではありません。

このように、きわどい事例に対しても、ケンカ腰ではなく、エビデンスベースでおだやかにわかりやすく説明していきます。

とても「大人」な文章だと思いました。それだからこそ説得力が生まれています。

科学者でありながらこの文章スキル、おみごとです。

 

コロナショックに対して使える視点

この本は2012年に出版されていることから、福島の放射線について紙幅を割いているほか、添加物、発がん物質、ホメオパシーなどについて取り上げていますが、ここでは特にコロナショックに対して考えるヒントになる視点をご紹介します。

1 リスクとトレードオフ

 

「リスク」とは「危険に遭う可能性」のことを言います。

本来、リスクは生きていれば避けては通れないものです。

リスクは放っておくと増えていくものなので、それを抑えるにはコストがかかります。

リスクをゼロにしようとするとコストが増大しますが、リスクをゼロにするためにコストを無尽蔵にかけるのは現実的ではありません。

そこで、リスクを低くするために、私たちは日々、リスクを比べて何を選択するかを判断しているのです。

 

しかし、最近の日本では特にリスクは忌み嫌われ、低ければ低いほどよいという風潮になっています。

また、理性で判断するリスク管理よりも、生物としての「本能的リスク判断」のほうが強固なため、リスクの読み違えが生じると筆者は言います。

確かに、ここからリスクに対する過敏で感情的な反応が生まれているように感じます。

 

交通事故の危険を避けるなら、家に閉じこもっているのが一番いいでしょうが、運動不足になって病気のリスクが高まるでしょうし、そもそも生きていくためのお金が稼げません。

我々は生活のため、交通事故その他のリスクを取って、給料や社会生活といった利益を得ているのです。大げさなことを言うようですが、人生は「どのリスクを取ってどの利益を得るか」という選択の連続だともいえます。

 

ここで挙げられている「交通事故」は、そっくり「新型コロナウイルス」に入れ替えることができますよね。

新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるために、今は自粛が続いていますが、どこかでそれは解除されなければなりません。

そして、新型コロナウイルスと共存しながら社会生活を送っていかなければならないでしょう。

 

そのときには、実現不可能な「ゼロリスク」を追うのではなく、ましてやそれを政府の責任にするのではなく、どこまでのリスクを自分は取るのかを、一人一人が自分の基準を持って判断することが大切になります。

コロナは、8割は軽症だが2割は重症化して命の危険もある。

高齢者や基礎疾患がある人は重症化しやすい。

そのほかの感染経路などの、その時点で明らかになっている情報をもとに、自分の年齢や健康状態、そして社会的・個人的な状況をふまえて、自分の行動について決定していくしかないのではないでしょうか。

自分に必要なベネフィットは何か、そのためにはどこまでリスクが取れるのかを判断できるのは自分だけなのですから。

 

2「定性分析」と「定量分析」

 

リスクを判断するときの基準として、筆者は「定性分析」と「定量分析」を挙げています。

 

定性分析……分析したいものの中に、ある物質が含まれているかどうかを調べる

定量分析……分析したいものの中に、ある物質がどれだけの量含まれているかを調べる

 

リスクを判断するときに、危険な要素が「ある」「ない」で判断するのは簡単ですが、現実的ではありません。

たとえば、「水道水の中に危険物質が検出された」というケースでは、「検出された」から水道水は飲めないとなりがちです。

しかし、危険物質がどの程度含まれていたのか、それを取り入れることによる影響はどのようなものなのか、をきちんと把握すれば、人体には影響のない程度だから大丈夫、ということもある、と筆者は言います。

 

コロナについても同じでしょう。

軽症の感染者を収容するホテルを発表したところ、周辺住民から反対運動が起こったといいます。

しかし、人から人へ感染するコロナウイルスがホテルの中から周辺住民にうつりようがないのは冷静に考えればわかることです。

 

新型コロナウイルスはもうなくすことはできません。

コロナに関するものを頭ごなしに拒否するのではなく、それが実際に悪影響を及ぼす可能性がどのくらいあるのかをひとつひとつ考えていくことが必要になります。

 

3 分母が示されているかどうか

筆者は、怪しい話かどうかを判断する基準として「分母が示されているかどうか」を挙げます。

たとえば、一時期中国から輸入された農作物の残留農薬が問題になったことがありました。

基準値を超えた残留農薬が検出された数は中国産のものが多かったのですが、そもそも輸入された量が他国に比べてずば抜けて多かったために、検出された割合は他国のものと変わらなかったということです。

 

コロナウイルスに対する報道についても、分母を無視した乱暴なものが目立ちます。

たとえば感染者数。

感染者数は新規の人数がプラスされていくので、数字はどんどん増えていきます。

しかし、感染者の中には無症状や軽症の人もおり、回復した人もいるので、感染者数が現在の新型コロナウイルスの実態を表しているわけではありません。

しかし、数が多いほうがインパクトが強いせいか、マスコミはただ人数の増加を強調するだけです。

たとえば致死率。

4月28日現在、感染者数が13,576人、死者が376人なので、致死率は2.7%となります。

テレビは、致死率の高さを言う一方で、そもそもPCR検査数が少ないので感染者数が故意に抑えられている、市中には無症状の感染者が多くいるようなのが怖い、と言い立てます。

しかし、もし実際の感染者数が10倍いるとしたら、致死率はぐっと下がることになります。

 

また、具体的な症状についても、重い事例、亡くなった事例については詳しく報道されますが、8割を占める軽症者を含めた全体的な状況については伝わってきません。

分母の全体を確認するのは大変ですし、大変な事例のほうが視聴者の興味を引くのであえて分母を無視している部分もあるでしょう。

 

そうであればなおさら、報道から抜け落ちている部分、全体像を、不完全ながらも知ろうとする努力が、一人一人に求められているのではないでしょうか。

 

生きることはそのものがリスクである

 

どんなものであれ、食べるものには必ず何らかのリスクがあります。食べたものが消化分解されてエネルギーに変わってゆく過程では、必ず活性酸素が発生し、DNAや各種重要分子を傷つけてしまいます。

食事をするということは、いってみれば、生きるために必要な栄養やエネルギーをとり入れる一方で、少しずつ与えられた命を削っていく過程でもあるのです。もちろん、食べずに生きていくことができるわけもありませんから、これは生命に与えられた宿命に他なりませんが。

 

新型コロナウイルスは怖いですし、終息に向けては社会全体で取り組んでいくことが不可欠です。

ただ、そもそも生まれてきたということは、すなわち死ぬことを運命づけられたということなんですよね。

新型コロナウイルスで死ぬよりも、交通事故で死ぬ確率のほうが高いかもしれません。

新型コロナウイルスの死者は376人ですが、2020年は3月末までに4,749人の自殺者が出ています。 (警察庁Webサイトによる)

 

新型コロナウイルスについては、誰かを責めたり、やみくもに恐れたりするのではなく、その時点で可能な信頼に足る情報を集め、自分でリスクを判断して行動する。

そして、私たちはいつかは死ぬ存在なのだから、悔いのないように毎日をできるかぎり大切にしていく。

コロナショックという体験は、そういうことを改めて考えさせてくれた、貴重な経験かもしれません。

 

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